2011/03/26

Earthquake 9.0 No,1

今、この時、感じた事を書き留める。

3月11日に起きた地震発生から14日経った。日々日常に戻りつつ都内の雰囲気がその事実を風化して行く様な気がして、嫌な感じ。今でも被災地では大変な思いで過ごす人々や計画停電(輪番停電)で該当する地域の人々が苦労する日々を送っている。その人達の事を想うと息が詰まる。

あの日、会社で仕事をしている時に緩やかな揺れを感じ、すぐに収まるだろうと周りを見回していた。でもその揺れは次第に大きくなり、止まらなかった。大きく揺れた時には自然とデスクの下に隠れた。徐々に揺れが収まる。床と自分とがずれて見えて船にのっている感じがしばらく続いた。会社の建物自体が頑丈だったので被害はそれほど無い物だと思い込んでいた。2度目の揺れは会社の前の空き地に避難している時に起こった。空き地の泥がゆっくりと小さく地割れをしていく様を眺めて揺れに耐えた。社内には20人ぐらい居たのだけれど、避難したのは3人程。なぜ避難しないのか俺には分からなかったけど、集団心理というものなのかもしれない。それが一番怖い。社内に戻りテレビのニュースに釘付け。燃える工場を見たときに、ただ事じゃないとその時初めて感じ、自宅に居る妻が心配になり、普通に仕事に戻る他の人達を置いて、「すぐに戻ります」と一言いって自転車にまたがり自宅に帰る事にした。自宅に帰ると部屋の中がメチャクチャ。帰って来た俺をみて妻が泣き叫ぶ。会社は丈夫だからたいした事なかったけれど、古いマンションの自宅は相当な揺れだったのは入った瞬間に分かった。

片付けをしながらTVのニュースを見ていたら、次第に状況が分かりはじめ、実家が被災している地域だと知った。もの凄く心配になって電話をかけ続けるも、当然繋がらない。繋がったのは3日後。その間は生きた心地がしなかった。結局、地震の当日は小田原のホテルに宿泊中で怪我1つなかった。家の無事が確認出来たのはその次の日の夜。高速道路は通行止めなので、下の道を迂回に迂回。大渋滞を何とか切り抜けて帰宅したと聞いた。外装に多少のひび割れはあったものの、家自体は大丈夫。しかし中は全ての物がひっちゃかめっちゃかになっている状態だったそうだ。高台にあったため津波の被害にも遭ってなかったが、5m下は海水に浸って半壊状態。たまたま助かったという状態。普段、実家には連絡をしないけれど、俺に出来る事といえば電話をかけて声を聞かせる事ぐらい。今も断水と断続的な停電が続き、無論ガソリンもないそうだ…。

週を明け何事も無かったかの様に、会社は通常業務。しかし、やっぱり皆、不安が募っているようで、見えないストレスの存在は大きい。感受性の強いデザイナー達にとっては辛い日々が続いてたと思う。自分が今やっている制作物に疑問を持ち始めると、手が止まる。2週間経った今でも時折、ぼーっとしてしまう。仕事に疑問を感じつつも、デザイナーとして作らなければ飯は食えないわけで、非力な自分に嫌気がさしたりする。この状態がしばらく続くのは間違いない。どこかで折り合いをつけてやって行かなければ。

本来であれば、俺にも招集がかかるところ。でも志願していないからそれはない。被災地へ趣、助けたい気持ちも抱えながら、普段の仕事をやる。そんな精神状態はまずいが、今の生活を維持する事で精一杯。とにかくやらなければ…。


実家、招集、仕事。とにかく、前にすすむしかないのだ。